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サイト4

Kaleshwar


旅のあらすじ

 ボンベイの東、トリンバケシュワールより湧き出る聖河ゴダヴァりは、東から西へとインド大陸を横断してゆく。 聖者ガウタマが牛を殺してしまった罪を洗ったことから、ゴダヴァリでの沐浴はすべての罪を洗い流すといわれ、今も多くの巡礼者が訪れる。

 AP,MP,MHの州境、AP側にある聖地カレシュワールでは、青いゴダヴァリ、赤いプラナヒタ、透明のサラスバティ(地下を流れる神秘の河) の三河が合流する" トリヴェディサンガム"の壮大な景色にであう。延々と広がる空と水の青さが、白い砂で区切られていて、まるで別の惑星に来たかのよう。シヴァ寺院のダブルリンガム、"カレシュワール"(時の支配者)は南インド巡礼のゴール。

 原生林のあいまにあるカレシュワールの村は、今も原始的な古いたたずまいを残している。 高台にはシヴァ寺院やダラムサラがあり、その周りに広がる農村を通り抜けると、 広々とした砂地とゴダヴァリの流れが目の前に広がる。ここはすでに南インドの枠に入り、砂に反射した直射日光の猛烈な熱さは頭がふらふらするほどで、体調を壊しているトルシーと共にサバイバルな毎日を過ごすことに・・・。


ダラムサラの屋上よりゴダバリを望む。

 

 村の中はまるで千年前のインド。
ジャングル素材の民家、農耕具はがっしりとした大木で作られている。 私の腕よりも太い綱で大木を縛りつけた、巨大な荷車に目を見張り、 毎日興味深々うろうろとみて歩く。プラスチックやビニールに限らず鉄金属ですらまれであり、 日用品は木や竹や粘土で作られていて、ここに暮らす小柄な村人達とは対象的に、何もかもとにかく大きい。 農家の庭にはバナナやパパイヤが豊富。豆の木には若い実が鈴なりで、 ヤードには農作物が山と積まれている。





 村の中心には日用品店が数件あり、砂糖や米などは何とか手に入る。しかし、野菜となると硬くなったジャガイモぐらいしか見つからず、 ナークプールから担いで来た少しの食料も底をつき、私達はひもじい思いをしていた。

  どこへ行っても、インド人はその好奇心を押し付けるかのように、ひっきりなしに話しかけて来る。 巡礼者に必需品を供給したり、その生活をアレンジすることは一般的であり、 北インドの巡礼地では宿泊や食べることにまず問題はない。しかしここでは少し勝手が違う。 村人はやって来たよそ者をじっと目で追うばかりで話しをする人はなく、 私達のことをマハラシュトラ人だとかボンベイ人だとか噂しているのが聞こえる。

 寺院やダラムサラーには、参拝に来ている地元の団体グループが出入りし、 彼らは私達に近づいて来ては、まるでテレビを見るかのようにただ異国人を観察する。 私達が歩けば彼らもぞろぞろとついて来ることが多く、 挙句の果てには部屋の前に人だかりが出来てしまう。時に私たちは椅子を外に出して観客の前に座り、彼らを見つめ返して不思議なインド人を観察する。多くの人はとたんにそわそわとし始め、次々に去ってゆく。残った人々は、我々とのにらめっこを楽しんでいるかのよう。私たちのヒンディー・サンスクリット・英・日・独語を駆使して交流を試みるけれど、何を聞いてもまともな答えは返ってこない・・・・。何とか隣の村で市が開かれることを聞き出し、バスでジャングルをひとっ走りして食料を確保。


 地元の巡礼グループ。
彼らは神々を訪れるためにここへ来たのであり、異国人の観察にふけっている場合ではない。本来の目的を全うしてもらう為にも、私達は時折彼らの前から隠れた方が良い。

 


 すばやく畑や茂みの中を通って観客の目を逃れると、ここでは水牛の群れに出くわす。とても立派な長い角を携えた水牛達は、私たちをちらりちらりと見ながら、ただもくもくと草を食べている。



 




Godavari ki Jai !


 ゴダヴァリを訪れる人々は聖水を浴び、祭司の指示により大小のプジャ(供儀)を行い、とうもろこし、米、花などの捧げ物をおいてゆく。このような質素な供物も、そこに込められた愛情と献身が神々を喜ばせる。

 

 渡し舟の付き場。
一日に数回、乗客が十分に集まると船は出るので、5分でも4時間でも出発まで待つしかない。

 川を境に対岸はマハラシュトラ州となり、半日をかけて向こう岸にたどり着くと、 確かに雰囲気も言葉も人々もガラッと変わるのは興味深い。 インドの文明は北のアーリアン、南のドラビディアンと大きく二つに分かれ、 中央インドを横切る大河がその境ということになる。

 


 青々としたゴダヴァリは、広くさらさらと静かに流れる。
毎日の沐浴や洗濯は、もちろん川で。水の流れにたどり着くまで、足にまとわりつく熱く焼けた砂を引きずり、炎天下を黙々と歩かなければならない。水辺にたどり着くと、先ずはザブンと飛び込んで心ゆくまでそのすがすがしさを味わう。 そこへ待っているのは洗濯。豊富な水をバシャバシャやりながら、 ひんやりとした岩の上でごしごし洗濯するのは気持ちよいもので、岩の上に広げて干しておけば あっという間に乾くので、快適に手早く完了。 アリタ(石鹸の実)と聖水で洗われたインドの木綿はふんわりと膨らみ、 着てみるとその水の素晴らしさをを実感できる。




砂と水を堪能したら小枝を集めてチャイを沸かし、日陰で休憩。







 サンガムを照らす満月。


―――私は水の味であり、太陽と月の光である。そしてヴェーダのマントラにおけるオームの音節、エーテルの響、人間が持つ能力である。私は大地の清新な芳香火の暑さ、生きとし生けるものの生命そして苦行者の苦行。私が全存在の根源なる種子であり、智者が持つ知性、すべての強者が持つ勇気である。――― (Bg.7‐8/9/10)

 

 

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